ロシアの「世論基金」のA.オスロン会長が、『アガニョーク』誌のインタビューに応じているので、その発言要旨を以下のとおりまとめておく。

 2011年にプーチンの支持率が落ち込んだのは、急激というよりも段階的に進んだ。最初は、年初にすべてのロシア国民にかかわる物価の値上げという出来事が起こり、その結果プーチン=メドヴェージェフのタンデムおよび与党への支持率が下がった。こうした大きな出来事は、世界経済危機の影響を受けた2009年以来のことだったが、2009年当時は危機は国外から到来したもので政権は悪くないと受け止められ、この脅威に対処できるのはタンデムだけだと考えられた。その次に世論に多くな影響を及ぼしたのは、秋にタンデムの大統領と首相の「入れ替わり」が明らかになり、メドヴェージェフが二番手の役割に後退することになり、このことが一部ロシア国民の期待に反していた。

 これまでプーチンが成功してきた最大の原因は、彼が常に世論の求める声と共鳴していたことである。2000年には、カオス・崩壊を克服するというものだった。2003~2004年には、国民は自らの物質的な生活を豊かにしたいと願っていた。プーチンは、資産、外貨準備、予備基金について語るビジネスマンに身軽に変身してみせ、国民の期待に応えた。2007年末~2008年初頭には、新生ロシアが最も幸福だった時期で、道が外車で渋滞するようになったり、国民が普通にトルコやエジプトに保養に出かけたりできるようになったのもその頃で、当時は誰もが安定を望んでいた。

 ロシア国民が、安定志向から、急に改革を渇望するようになったというような、急転換が生じたわけではない。ロシアでは安定というものについての理解が、最初から不正確だった。安定とは、停滞の同義語ではない。世論基金では、国民の安定というものについての態度を評価したが、ロシア国民は物事が常に良くなり続けることを安定だと思っているということが分かった。タンデムの出現は国民に歓迎され、プーチンは安定した中心で経済を取り仕切り、メドヴェージェフは未来について語り、青少年に語りかけ、当時支持率は急増した。社会には刷新に対する期待が高まり、すべての社会グループが新しいものを求めた(グループによって求める新しいものは違ったが)。

 「入れ替わり」により、皆が失望したというわけではない。今回の大統領選の特徴は、社会が積極派と消極派にくっきりと二分されていること。積極派は15~20%、消極派は85~80%程度。入れ替わりに失望したのは積極派。積極派とは、職業的な野心を持った人々であり、すべての地域にいるが、大都市に多い。ゆえにモスクワにおけるプーチンの支持率はせいぜい35%で、他方で農村では少なくとも55%。一頃、これらの積極派がメドヴェージェフを支持していた時期があったが、メドヴェージェフが脇役になってしまったことで、彼らは自分たちの代表が政権にいないと感じるようになった。それにより社会的不満が鬱積するようになり、それが「誠実な選挙を求めて」という集会となって表れた。選挙の不正に対する抗議は、不満を表明するためのきっかけにすぎなかった。国民の最大の不満の種は、ロシアで勢いを増すばかりの無法状態。他のビジネスマンからカネをかすめ取ろうとする役人=ビジネスマンが、増殖しており、司法もそれとつるんでいる。こうした状況に、積極派の国民は愛想を尽かしている。むろん、積極派が全員ビジネスマンとは限らず、腐った連中の下で働くことを余儀なくされている芸術家や公務員もいるが。一方、反政府集会には貧困層の国民も見られるが、彼らは貧しさゆえに常に不満を表明したい気持ちがあり、たまたま現在反政府運動が盛り上がっているから参加したというだけ。これに対し、消極派の国民は、上述のような問題に直面しておらず、積極派が何に不満を抱いているのか理解できない。これは損得の問題ではなく、生活様式の違いによるものなので、理解不能。

 プーチンの支持率が12月の末から上昇していることは事実で、現在49.5%。有権者が、誰に入れようかと考え始めるところで、まずプーチンのことを思い浮かべるのだから、これは当然予想されたこと。ジュガノフとジリノフスキーに新味はなく、ミロノフとプロホロフは泡沫のまま。プロホロフは一時期、不満票を集めるかに見えたが、右派政党での失敗と、言っていることが本気なのかどうか分からない散漫なキャンペーンのせいで失速しつつある。したがって、プーチンの勝利は疑いないが、それでも政権側は反政府集会のことを大いに意識しており、現在、どのように新しい社会の要請に応えようかと苦慮しているところ。政権側は、自らがどのように応じるかで、自分たち自身にとっても、ロシアにとっても、大きく左右されるということを理解している。